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レギュラーでやっていたラジオ番組でポロっと言った一言が、事の始まりである。
「55GO計画」。
活動休止せざるをえなかった状況におかれた俺が、悔し紛れに言い放った身勝手な計画。俺の意地が、そう言わせたのだろう。
1993年夏頃のコルベッツはドラマの主題歌をうたい、30万枚以上の売上をマーク。もうひと押しでブレイクまちがいなしという、その頃のロックバンドとしては充実した日々を過ごしていたかのように周囲からは見られていたはず。
同業のバンド連中などからはこの状況を羨む声をよく耳にした。その逆で、中傷の声もなかったわけではない。気にもなったが、周りの事はどうでも良いと思えるほど疲れてた。自分に嘘をつけない性分があり「充実」した日々はその後すぐに幕を閉じた。
コルベッツは元々コルベット。東京で生まれ育った俺が1985年から創り続けてきた絆(きずな)である。メンバーチェンジを何度かくり返し、1989年に現在のメンバーになり、1991年デビュー。それまでは“スマートなブルースバンド”が決まり文句。ロックに狂う兄とロックンロールに狂う兄を二人持つ3兄弟の末っ子としては、ある種普通の発想ではなかったかな。歌も演奏も兄達にはかなわないと思っていたが、そこは弟の意地で決してあきらめず、ひたすら走り続けていた。
何故かライブハウスという響きが嫌いで、そこそこ名の知れた「ライブハウス」にも出たが、極みは「F号倉庫」セルフプロデュース。なんにもない倉庫を借りてはイントレでステージを組み立てバーカウンターを創り、外人ドアマンを置きチケットも独自で売り、『club F号』という夜を演出。1年半近く続けて最終的には250人位を動員していた。
“ウォーターフロント”という流行語にのり『club F号』の後に大流行りした「ゴールド」や「インクスティック」なんかは間違いなく俺達のマネでは?と錯覚するほど水際には勢いが。ひょっとして「クラブ」と言い始めたのって俺が最初じゃないかな?なんて、今思う。
そこに業界関係者が足を運びはじめ、あるレコード会社主催のデビューイベントに参加する。NYスタイルをそのままに『アポロシアターアマチュアナイトジャパン』がそれである。1990年の年間チャンピオンになり、NYアポロシアターで日本人初のゲスト出演を果たした。
1991年9月25日「Dancin'」という曲でデビュー。俺にしてみりゃブルースバンドなのに作曲が作家の人で、作詞こそしたけど、正直どっかで聴いたことのある曲?というのが最初の印象だった。
楽曲の善し悪しは全く別。なんでこういう状況?という毎日が2年半ほど続く事になるのだ。「バンドなのになんで?」って。俺達が創る曲がそうとう「売り物」からかけ離れていたのか、音楽業界の関係者は口を揃えて「○○○ズを見習え、売れた後ならなんでもできる!」と。売れる事は嬉しい事だけど「売れ方」がそれでは俺達らしくない!と思った。いやっ、贅沢と言えば贅沢…戯言(たわごと)ぬかすな!と言われそうだが、ほんとに思ったんだ。じゃぁ売れるってどういう事?と聞くと「そうだなシングルで30万枚売りからだ」とのこと。おっかない業界に首を突っ込んだのは俺の方さ、少々の事では驚かないつもりでいたが成功への方法論が全く平行線状態だったのには真面目に驚いた。
どうせ平行線なら30万枚を売ってもらう形にして、好きな仲間と音楽人生を楽しもうと思った。それまでの自由な創作スタイルから“売ってもらえるような曲創り”へ「売れる曲を創ろう!」時代の到来であった…8/5PRIDEというアルバムあたりからか。
努力し、研究し、実験しました毎晩メンバーと。でもブルースロックから売れ線へ?急に心変わりしたかのように思われたのか、その結果メンバーともギクシャクする事になる。その頃を思い出すと、それはそれは結構つらかった。
でもその苦労が実り?5枚目のシングルが売れ行き好調、ツアーも20ヶ所以上をこなし、地方キャンペーンでのテレビ・ラジオ出演、雑誌の取材や連載ページの原稿仕上げ、東京に戻りテレ朝のミュージックステーション出演という中、肉体がじゃなく心が悲鳴をあげたのだった。「なんか違う、なんか違う」が爆発してしまったのか、某ラジオ番組主催のライブイベントで一緒に参加してたバンドと乱闘…多大な迷惑と損失を計上。ここからはローリングストーン?石が山からころげ落ちるような展開に見事になってゆく…。
まず最初に起きたのが、期待される次回のアルバム(5枚目)のディレクターが交通事故で重体になり入院。所属事務所では俺達(主に俺)が引き起こした数々の問題で最悪のムード。まことに皮肉な事にシングルの数字は30万枚を超えていた頃だ。
事務所との話し合い。
「30万枚は売れたのだから、俺(バンドとして)の行きたい場所へ行かせて欲しい」
今までもそうだが更にわがままをぶつけ、好き勝手な事を諸々ぶちまけた…。俺達に力を注ぎこんでくれたスタッフや関係者の事など全く考えずに。
俺の人生の中で、取り返しのつかないことや思い出すと恥ずかしくてどうにもならないことというのが多々あり(大人としてかなりまずい)、思えばこれが代表的な事件のひとつと言える。所属事務所は非常にアットホームで素晴しい事務所だったと今でも思うが、当時の俺みたいな奴には少しだけ窮屈なこともあった。裏を返せばちゃんとした事務所であったということだ。自分を偽ってまで作品創りの方向性を180度変えてしまうような馬鹿な俺だが、その頃の俺の悪行は誰にも止められず…専属芸術家契約を解除することになる。
その時の事を鮮明に覚えているが、話合いの帰りの車の中で(この頃)めったに聴かないコルベッツを聴きながら「終わったな」と思い、高輪あたりでハザードをつけて暫く停車してた。
レギュラーのラジオ番組にはまだ残りがあり。レコード会社も契約上まだ期間があったからなのか、次の所属事務所を懸命に探してくれていた。
ご存知のとおりこの頃バンドではなく2人組なる「ユニット」というのが台頭しており、どこの事務所も5人は受け入れられないという事で、決断をしなければならなかった。俺はデビュー前から「バンド」という形にこだわり続けてきた。バンドでなければデビューしなくたった構わない…これくらいこだわっていたのだ。しかし、その時の荒れ狂った俺にはそのわがままを通す力はなかった。ふざけるな!5人揃ってコルベットなんだ!も、むなしく。5人のうち誰かと誰かに分裂してなど、いやなしこりが後々残るくらいなら俺一人が全責任を負って1対4になる。いつか氷が解けたら、また同じ5人でリスタートすればいいじゃないかと。そこで自分に誓った。
「5」年後、同じ「5」人で、好きな音楽を改めて求めて行く(GO)。これが「55GO計画」である。
でもこれは俺にとっても一つの賭けだった。みんな(4人)がその時、この事を納得してくれるという保証は何ひとつ、なかったのである。これは、後の別ストーリーで明らかに…。
1994年3月28日に最後のライブを甲府で行い、この計画が俺の心の中だけで始まったのだ。この時すでに所属事務所はなく、ラジオ局の方と番組のディレクターに協力してもらい、ライブは大成功した。関係者のみなさんには今も深く感謝しています。
コルベッツのメンバーは演奏力もあり、スタジオの仕事やアーティストのライブパフォーマンス、テレビの仕事などを続けていた。一方俺は、とある音楽制作プロダクションに所属して新しい「ユニット」としてデビューに向けて創作活動をしていた。1994年10月には再デビューしていた。したたかでいい、それがリーダーの責務とその頃は真剣に考えていた。
もう一つ考えていたのが、コルベッツオフィスの旗揚げ準備だ。
俺のユニットは3枚ほどのシングル・アルバムをリリースして終わった。ほどなくファンハウスと契約、「ステレオクリミナルズ」という、これまたユニットで活動を始める。この間に実は幕張にできたインターネットカフェでコルベッツ隠密ライブを敢行、300人を超える動員!俺の中で密かに思っていた、結成10周年。1995年の12月の事だ。
「ハピーバースデー“コルベット”」
5年後と誓う1999年まであと4年あった、冬の事だ…沢山の悪行三昧を反省すれど、後悔なし。
つづく |
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